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新・江師風土記(1)田植え

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2017年06月05日

ウェル花夢の江師地区。田植えも終わり、水と光をたっぷり浴びて育つ

田舎で生きるすごいところは、毎年おなじことを繰り返すこと。
後継者がいない、機械貧乏、現金のため出稼ぎが一番
・・とかいいながらも、
春になると山間の少しばかりの田んぼに水をはり田植えのしつらえをする。
 
1年サイクルの暮らしぶりは、
2千年の体に焼き付いた弥生人のDNAなのだろう。
そんな弥生文化の稲づくりは、
縄文時代を生きる自由な山暮らしの人々にとって
退屈な苦役でしかなかったのではないかと思えてくる。
 
シーシュポスの神話にこんな刑罰がある。
「大きな岩を山頂に押して運ぶ。
 と、その瞬間に岩は転がり落ちてしまう。
 また、同じ動作を何度繰り返す」というもので、
意味のない行為が最大の刑罰だという。
 
(並ぶ早苗)

稲作を意味がないというわけではない
米が暮らしに豊かさをもたらしたと歴史で習ったが、
失ったものも多い。
佐賀県吉野ヶ里の環濠集落は、稲の「富」が集積されるゆえに、
収奪と配分に力関係が生まれ、
外敵から「富」守る必要から、
戦いも生まれてくる。

 

縄文の山人の暮らしは、春は春、秋は秋の、
時折々の山の実りをいただくだけ。
余分にいただくこともないから、
蓄える「富」も必要がない、蓄える土地もない。
外敵が来ることもないが、来たら山にいっとき隠れればよい。
土地に縛られることもない自由人。

 
「漂白」と「定着」は生き方の分かれ道
家を建てその借金のためにがむしゃらに働く都会の人々は
土地に呪縛された里の人と同じ弥生人に流れる「定着」のDNA

私のDNAは「漂白」する縄文人に違いない。

(20150605胡)

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